マンスリースペシャル2

マンスリースペシャル 〜秋津人物伝(その2)〜

わずか20年足らずの秋津の歴史にも忘れられない人々がいます。
想像も及ばないほど、人や自然を深く愛し、生き生きと、この地に生き、さりげなく去って行った。
そんな人々を私たちは、忘れる事ができません。
「秋津人物伝」は、歳月を隔てた今なお、秋津の記憶に残る人々のシリーズです。


「お花のおばちゃん」 近藤ヒサ子さん

4月ともなれば、花の便りがここ秋津の地にも届き、秋津幼稚園の園庭の片隅にも春の微かな予感がただよいます。

20年程前から、まだ、そこが「裏の畑」と呼ばれなかった頃、そこに「近藤ヒサ子」さんの姿がありました。

1980年。東京湾の埋め立て地にできたばかりの校庭は、乾いた砂塵が舞います。
そんな殺風景な校庭や道の傍らにお一人で黙々とお花の種を撒き続け育てていたのです。
たくさんの種類の花が四季折々に花を咲かせるようになると、いつしか「お花のおばちゃん」と呼ばれるようになりました。

「すみれ」が野を飾るこの季節に「お花のおばちゃん」はいつまでも枯れない一輪の花を私たちの胸に植えて永遠の眠りにつきました。

1998年3月8日没・享年82歳


「お花のおばちゃん」子ども達に囲まれて

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優しい人柄に惹かれるように自然に子供達が囲み多くの大人達も人柄を慕って集まります。


近藤さんが去った今、秋津コミュニティのサークル「うらの畑」の方々がその遺志をついで、お花のお世話をしています。
秋にはコスモスの花が、幅1メートルで長さが30メートルにもおよぶ「コスモス街道」にまで広がり、秋津のみなさんを楽しませてくれています。
私たち秋津の後輩は、近藤さんを「秋津の母」として、永遠に「地域の記憶」として語りついでいます。


『朝日新聞』「天声人語」(全国版)1986年9月21日より一部抜粋

…そういえば、このごろの本紙地方版には、地域社会にとけこんで活躍する老人たちの紹介記事がめだつ…
▼千葉の70歳になる女性は、団地の空き地、道ばた、小学校の庭などを花で埋めている。
コンクリートの街に残るわずかな土の地肌をみると花を育てたくなるのだという。
花の世話を通じて新しいつきあいが生まれることも楽しい。

『朝日新聞』(千葉版)1986年9月9日より

花植えおばあちゃん 習志野うるおす 秋津の近藤ヒサ子さん 路地や交差点・校庭…… 15年間で数百種
近藤さんの実家は福島だが、二十年ほど前に夫を亡くし、習志野市の息子さんの社宅に住むようになった……。

潤いのあった郷里とはまったく違う。
近藤さんは社宅の小さな庭で花を育て始めた。
田舎仕込の近藤さんの手で、庭はすぐに花でいっぱいになった。

「多くなり過ぎた花やその種を生かせないだろうか……」。
今度は同市立秋津小学校に通い始めた。

秋津小学校は、東京湾の埋め立て地で約三万平方メートルと敷地は広いが、殺風景なうえ、砂ぼこりがひどい。
根が残ったアシが、雑草に交じって芽を出す。
雨が降るとすぐぬかるみ、枯れた花も多い。

でも三年間、大雨の日以外は休むことなく努力したかいあって今では約百種類の花に包まれた学校になった。
途中築かれた長さ五十メートルの防風用土手にもジャノメの花が揺れる。


本の挿し絵となった「お花のおばちゃん」のイラスト

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近藤ヒサ子さんの想いで

「お花のなかで、私はヒマワリがいちばん好きなの。太陽に向かって大きく元気に咲いて……」

近藤さんと園庭を歩きながら、ひとつひとつお花の名前をおしえてもらっていたときに聞いたことばでした。
いつもお一人で、もくもくとお花の世話をされていた静かな方の、意外な好みでした。
しかし、きっと心には素晴らしい大輪の花の情熱がおありだったのでしょう。
そしてそれは今、やさしい"小さな自然"となって私たちをなぐさめ励ましてくれています。

イラストとともに
関知磨子さん(劇団・蚊帳の海一座座長)


おばちゃん。お花を本当に咲かせたかった場所は、私たちの心の中だったのでしょうか。
今度は私たちが、この花を大切に育て、いつか誰かの胸にも咲かせてみたいな。

マンスリースペシャル「秋津人物伝(その2)」 了